昭和五十七年七月三十日 朝の御理解
御理解 第七十六節 人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間がみると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。
人を助けるというても、やはり助ける力を頂かなければなりません、お金で助けてやろうと思えばお金をもっとかねば、助ける事ができないようなものです。あの人は気の毒な、あの人に今お金がいくらあれば助かられると思うてもね、自分がお金を持たなければ助ける事が出きんのと同じ、問題は自分自身が助ける力を頂かなきゃならない。安心のおかげというのは、神様を信じて疑わないところから、安心が生まれてくるわけですけれども、結局は自分の祈りというか、祈りの力をわかって信じるところから、生まれてくるのが安心なんです。
神様に御取次を頂いてお願いをし、また御祈念をさせて頂いておる事であるからと神様を信ずると同時に自分の祈った事、願ったことを神様が聞き届けて下さったというような、そこに私は祈りの力というが求められると思うんですね、自分の祈りというものが、祈りはしよろう、お願いはしとるけども、それが信じられない、それは力がない証拠であるね。ただ自分の用事がある時だけお願いした、お願いしとるから大丈夫といったようなもんじゃなくて、やはり自分の信心に一つの確信をもつというね、自信をもっというか、確信を持って行ける為にはね、自分の信心がキチットした信心修行が出来ておらなければいけません。
不思議に今夏期信行があっておりますが、皆さん本気で夏期信行をなさる方達の場合、それこそ一日でも欠かしちゃならんと、いうような、この根性のようなものが出てまいりますね。またそれこそ一分間でも遅くなるような事があっちやならんと、もう一時の御祈念が始まる時には、ここいっぱいの人達が、お届けを終わっておられます、というようなそういう信心が出来ておる時には、不思議とねモリモリと力がわいてくるもんです。それは特別な、このごろ若先生が他所から見えた先生方に話してましたが、もうとに角今日は驚きましたというて、その先生方があの一時の御祈念に参加してから話しておられました。
もうびっくりしたとこういうのです、だから合楽の信心というのは、あれはいつもぢゃないです、夏の夏期信行の時だけがあんなもう普通では、もうここでは声を出して御祈念をしない位です、朝晩の御祈念の時だけなんですけども、一時の御祈念にあれだけ沢山の人があれだけ一生懸命でやるというのは、もう一つの合楽の名物のようになって、一時の御祈念にはもう一生懸命腹の底から、その修行されるのですから、いっもあれが合楽と思ってもらっちや困るというような、を若先生申しておりました。それでも不思議な事に、ああして一生懸命に御祈念を頂いておりますと何か知らんけれども、心の中にモリモリと力がわく事は間違いないですね、というて先生方に話しておるのを横で聞きました。
それは丁度、夏の日の入道雲のような何かこうね、モリモリと力がわくようなね、それはあっという間に消えるものではありますけれども、例え一時でも一生懸命の御祈念をさしてもろうて、自分の心にです確信ではなくても、確信的な心が開けてきておかげ頂くぞというあの力が出来ます。それは夏の日の入道雲のようなもんですけれどもね、というて話しておるのを聞いて確かにそうだと思います。
ですからそういう信心が、常日ごろ出来ておるとする、一生懸命の信心が出来ておれば、入道雲のようなものではない、それこそ、いよいよ自分の心の中にモリモリと神様を信ずる働きも感じる事さる事ながらね、自分の心の中に祈り力というものを感じるようになるのですから、時々どん拝みよって、そして神様にお願いしとるけんといったような力が頂けるはずがありませんね、やっぱ力の蓄積ですためとかないけません、これは自分に力が出来てきた、出来てきたという事は自分の大体信心を見ればわかりますね。
私は、夜、夜中ふっと目を覚まして、あっ、あの事をお願いしてなかった、と思うたら改めてまたおきなおしてから御祈念致します、という事は私自身の祈りに一つの自身を持っておるから、確信を持っておるから、だからお願いをしていなかったら、もういっぺんそれを祈らなければ心が安らかない、そんなもんですよね。例えば柔道やら剣道やら稽古をなさる方がね、もう達人名人といわれるようになればなるほど、非常に用心深くなると言われますね、例えば柔道なんかやる人は絶対、いくら寒かっても腕ぷっくらなんかしてから道を歩くような事はないそうですね。
そんなに柔道が強いのだから、怖いものなかろうごたるけれども、それにはそれだけの日ごろの心掛けというのが違います、腕ぷっくらを中にねこう寒いときに腕ぷっくらしますけども、そういう場合に後ろから羽交い締めにパッと抱きつかれたら、もうしょうがないそうですよ、柔道がいくら強かってもね、手を懐の中に入れとる時に後ろから羽交い締めにパッと抱きつかれたら、しかたがないね、また剣道の達人といわれるよう人達はね、例えばこう道を歩いておってもね、曲がり角なんかを皆んな近い方をこうやって回るでしょう、けどもそういう事はしないそうです、必ず、道を曲がる時には、遠回りをするそうですね、遠回りをすると向こうが見えるわけ、近回りをしよると向こうからきよるとがわからん、角を曲がる時にね出会いがしらにヤーッとやられたら、もうやっぱ手がないという位に小さい心を使うといわれとります。
これは私自分自身の信心を段々こうやって進めてまいりまして、沢山の人が、助かるような働きも受けてくるようになりましたら、なりました程に用心深くなるです。もう間違いないですね、だから自分の祈りの力というものがです、を信じれえるようにならなければ人は助けられませんし、為には自分がどのくらい神様に心を向けておるか精進しておるか、小さい心、とに角大きな事ばっかり言うてもですね結局小さいところから、をおろそかにしたらそこからおかげがもってしまう、といわれるようにどの位神様を細心な心でね頂こうと、日ごろ精進しておるかという事を見たり思うたりすると、自分の信心がわかるわけです、自分の力がわかるわけです。 今の柔道やら剣道の達人名人と言われれば言われるほど、いうならば私共そういう事のない者は、いわばのん気でおりますね、腕ぷっくらせようが道を歩くならもう、必ず早回りをするに違いないですけれども、そういう事にも心を使うといわれるように、信心も段々自分の祈りに自身が持てれるようになり、安心のおかげも段々広がっていくおかげを頂く為には、そういう精進を自ずとせずにおれなくなってくる、例えば日参なら日参を決めておられる方が、日参ができなかった時には、もう、日参したつもりで家で必ず修行しておるにちがいないです。またそのくらいの心掛けがなからなければ、今日私がいう力は頂かれんと思うですね。
また力を頂かなければ人を助ける事は出来ません、お金で人を助けたいと思うなら、お金を持たなければ助ける事は出来ないように、人がいくらおぼれておってもね、自分が泳ぎを知っておらねば飛び込んで助ける事は出来ませんようにね、人を助けるという事が有難いと心得てとおっしやる為には、自分自身が助かる、自分の祈りを信ずる事の出来れるおかげを頂く、そこにはね、今夏期信行で皆さんが一生懸命信心を鍛えておるわけですけど、そういう鍛える心というものがいつも私共の信心の内容としていかねばならないという事ですよね。 どうぞ